2018年12月、5年間の年月を過ごしたヨーロッパから帰国。
様々な困難を乗り越え、サッカーの本場であるヨーロッパの国際舞台を目指したが、実現することはなかった。
「自分の中で、やりきった感覚があった。」
モンテネグロでのシーズンはまだ途中だったが、スパイクを脱ぐ決意を固めた。チームとは話し合いの末に、まだ残っていた契約を解除。
『本気』でサッカーと向き合っていたからこそ、中途半端な思いでプレーすることはできなかった。
日野健人。
オーストリアやモンテネグロで活躍したサイドバック。
モンテネグロからヨーロッパの国際舞台を目指した男は、なぜ一戦を退く決意をしたのか。
そして、プロサッカー選手として必ず訪れる『引退=終わり』に対して、彼はどのように向き合ってきたのか。どのように今を生きているのか。
サッカー選手としての日野健人ではなく、人間としての日野健人にフォーカスして話しを伺った。
※写真:本人提供(向かって右側が日野健人)
目次
『手段』から『目的』へ
関東学院大学サッカー部に所属していた日野。大学3年時に選出された神奈川国体成年チームの活動に参加したことが、大きなきっかけとなった。
「当時は部活でしかサッカーをしていなかったので、外の世界を知らなかった。しかし、神奈川県国体チームに参加したことで、社会人プレーヤーの方々と関わり、選手各々が熱い思いを胸にサッカーに取り組んでいることを知った。それが純粋にカッコいいなと。じゃあ、自分は今後どうなりたいのかを真剣に考えるきっかけとなり、元々思い描いていた”広い世界を見たい”を実現しようと思った。それを叶える”手段”として、サッカーでヨーロッパを目指そうと考えた。」
神奈川県国体チームへの参加がきっかけで、ヨーロッパ行きを決意。大学卒業後は東京都リーグのHBO東京に1年間所属し、アルバイトで渡航資金を貯めながらトレーニングを重ねた。
2014年、オーストリア8部・USV Wiesと契約。後期からの半シーズン同チームでプレー。
その後、モンテネグロ2部・FK Arsenal Tivatへ移籍。モンテネグロでのシーズンを戦い終えると、再びオーストリア戻る。同リーグ5部・SV Tondach Gleinstättenへ移籍。
しかし、日野の心境に変化が起きる。
「オーストリアではインフラが整っていて、サッカー環境も恵まれていた。生活するにも不自由ない。ただ、自分が求めていたものと少し違うことに気が付いた。初めてモンテネグロに移籍した際は、給料の未払いや生活面でも色々苦労があり、もう一度オーストリアに戻る選択をしたけど、モンテネグロでは手が届きそうな場所に国際舞台への出場権があった。※1) 現地の選手達の中には人生をかけてサッカーに取り組んでいる者もいた。モンテネグロでプレーしている時には気付けていなかったけど、やはりチャンスがあるならサッカーに全てを懸けて戦う人生が面白いと思った。ヨーロッパに来る”手段”として自分はサッカーをしてきたけど、サッカーをする理由がヨーロッパでの国際舞台を目指す”目的”に変わった瞬間だった。」
※1)モンテネグロ1部リーグの優勝チームはUEFAチャンピオンズリーグ予備予選、上位4チームにはヨーロッパリーグ予備予選出場権が与えられる。
その心境の変化がきっかけで、2016ー17シーズンに再度モンテネグロへ移籍。加入当時2部だったFK Komは、日野の活躍もあり1部へ昇格。2017ー18シーズン、リーグ上位に入れば翌年の国際舞台に出場できる権利を得ることができる。ついに、目標達成まであと一歩のところまで来たが、日野をアクシデントが襲う。
※写真:本人提供(ブルーのユニフォームが日野選手)
試合中に右足の腓骨を骨折。怪我は重症でプレーできない期間が続く中、そのままチームは2部に降格。
「本気でヨーロッパの国際舞台に立つことを目標に定めたのが遅かった分、目標を達成するには最短ルートで到達する必要があった。チームに加入当初は2部リーグだったが、1年で昇格できなかったらサッカーを辞めるという覚悟を持ってプレーしていた。昇格後は、1年でリーグの上位に入って目標を達成しないと最短ルートからは外れる。怪我をしたことで、自分が立てたプラン通りではない状況に陥ってしまった。なので、怪我から復帰した後は、正直モチベーションが切れてしまった部分があった。」
ヨーロッパ現地で実際にプレーし、自分の目で見てきた経験に基づいて、「最短ルートなら目標を達成できる」という計算を立てた日野。しかし、本気で戦ってきたからこそ、少しでも寄り道をしてしまうと目標が達成できない事も自分の肌で感じていた。
怪我というアクシデントではあるが、その最短ルートを突き抜けることができないと分かった瞬間は、彼にとってヨーロッパでの挑戦の『終わり』を意味していた。
海外サッカー挑戦を終えてから
2018年12月、チームとの契約を解除してモンテネグロから帰国。
サッカーは完全に引退する”つもり”だったが、過去に所属していた東京都リーグのHBO東京から「選手兼スタッフとして、もう一度一緒にプレーしないか?」という話しが届く。
「当時は自分が今後なにをしていくか全然決めていない時期で、帰国早々は日本全国を旅したりしていた。そのタイミングで、HBO東京から選手兼スタッフとしての話しをもらった。プレーでチームを牽引することと同時に、これから海外を目指す若い選手達を後押しするような役割もチーム側は求めてくれた。」
このオファーを受けた日野は、HBO東京で再びプレーすることを決めた。
※写真:本人提供(背番号22番が日野選手)
また、それと同時にサラリーマンの道へも進む。
「2019年4月から、東京のスポーツアパレルなどを手がける商社に就職した。Jリーグ等のユニフォーム作成も手がけている。サッカーの試合は基本的に土・日なので、平日に働ける環境を探そうと思った。サラリーマンになることを選択した理由は、日本社会を学びたいと思ったから。大学卒業後に海外に出た自分は、日本社会について知らないことも多いのが事実。運良く人との繋がりから、今就職している会社を紹介してもらい、何かの縁を感じて入社を決意した。海外でサッカーをしていた時と一緒で、人との繋がりは本当に大切だと改めて実感した。」
初めて海外に行く前から日野が大切にしてきた『人との繋がり』から、自分の新たな人生を歩み始めた。今まで過ごしてきたヨーロッパでの選手時代とは大きく違う環境だが、様々なことに興味を持って積極的に物事と向き合ってきた。
そんな新生活を送っていた矢先に、また新たな話しを受ける。
「初めて海外に行く前の2013年、HBO東京に所属していた時に一緒にプレーしていた仲間と再会。その彼が現在東京で手がけている”中根サッカーアカデミー”というサッカースクールの理念に共感した。そのスクールではただ単にサッカーを教えるのではなく、”心を育てる”という理念のもと指導を行っている。元々指導者になるつもりはなかったが、サッカーを通じた人間教育を行っている部分をみて、今後やろうと思っていたこととリンクする部分が多く、彼のスクールで一緒に働くことを決めた。今は、サッカースクールだけではなく、”GROWTS Kids Academy”という幼児や小学生向けの運動教室も展開している。」
このような経緯を経て、日野は現在『東京都リーグのサッカー選手兼スタッフ』『サラリーマン』『サッカースクールのコーチ』という三本柱の生活を送っている。
※写真:本人提供(子供に指導する様子)
日野健人という人間の魅力
『海外プロサッカー選手』の日野健人から、『日本でマルチに活動する人』へ変化した日野健人。彼はなぜ、新たな道を歩むことができているのか。
「帰国当初は本当に何もやることを決めていない状況だった。しかし、”人との縁繋がり”というものは海外に行く前からとても大切にしていた。結果的にその”人との繋がり”から、今の自分が存在している。ありきたりな言葉かもしれないけど、人との”縁”を大切にすること。それが重要なんだと思う。」
人間が社会生活を送る上でとても重要なことを、日野は海外でサッカーをする前から自然と理解していた。彼自身が積み上げていた信用が、いま1つの形となって現れている。
だからこそ、海外サッカーを通じて学んできたことや経験したことを、日本で多くの人たちに還元したい気持ちが強いという。
「日本に住んでいる時には気付かなかった日本の良さを、海外に出て初めて知った。それを我々日本人が活かすためにも”強い日本人”が必要だと考えている。これはサッカーだけに限らず、全てのことに共通して言えること。強さと言うのは、精神的にも身体的にも。この理想を実現するためには、何事も”本質”そして”本物”に触れることが大切だと考えている。例えば、音楽であれば一流の音楽に触れることが大切だし、サッカーなら一流のサッカーに触れることが大切。なので、今自分が携わっているサッカースクールであれば、サッカーの本質の部分を追及し、また自分が一切手を抜かずに本気で子供と接することが、一流と触れることに繋がると思っている。そのような自分の気付きや思いを、沢山の人に”シェア”していきたい。それが今の自分の理想。」
ヨーロッパに行くための”手段”としてサッカーをプレーしていた時代から様々な経験を経て、『ヨーロッパの国際舞台を目指す』と決めた。
その”目標”を達成するために、”本気”でサッカーと向き合った。努力の方法や質にもこだわり、時にはアジアのとある国から巨額のオファーが届いても「自分の目標とはズレるから」という理由で断り、自分が決めた目標に対して愚直に取り組んだ。
それでも、叶わなかったヨーロッパの目標。怪我からの帰国という”挫折”とも言える状況から彼を救ったのは、彼が大切にしてきた人との”縁”。その繋がりから、様々な形に発展していった。
多くの人たちの”協力”と共に、彼自身が経験してきたことや思いを、更に結果に変えていく作業の途中。それが日野健人という男の現在地。
きっと、彼自身の理想はまだまだ高いものなので、良い意味での”欲”がある。
そんな日野健人をインタビューして、彼に対して筆者である私が素直思ったことを記して、この記事を終わりにしようと思う。
「日野健人、なんだかとても生き生きしてるな。」
※日野健人(上段向かって一番右)と、筆者の大津(下段向かって一番左)。共にコーチを務めたサッカー教室の様子。
●日野健人 プロフィール
・生年月日:1990年8月9日
・出身:神奈川県藤沢市
・ポジション:SB、MF・所属チーム
1998 – 2002:鵠南FC
2003 – 2005:エスポルチ藤沢
2006 – 2008:三重県立四日市中央工業高等学校
2009 – 2012:関東学院大学
2011、2013:神奈川県成年国体代表
2013:HBO東京
2014:USV Wies(オーストリア)
2014 – 2015:FK Arsenal Tivat(モンテネグロ)
2015 – 2016:SV Tondach Gleinstätten(オーストリア)
2016 – 2018:FK Kom(モンテネグロ)
2019 – 現在:HBO東京
●日野健人 所属団体一覧
・中根サッカーアカデミー(東京都目黒区)
https://nakane-soccer-academy.com/
・GROWTS Kids Academy
・HBO東京
●日野健人 各種SNS
・Twitter→https://mobile.twitter.com/kento27458
・Facebook→https://m.facebook.com/kento.hino.1
・Instagram→https://www.instagram.com/kentofreigassner/
・note→https://note.com/kento7